大判錦絵 天保(1830-34)前期 画面いっぱいに2人の武者が戦う様子を描いています。多門丸は鎌倉幕府の倒幕に貢献した楠木正成(くすのきまさしげ)の若い時の通称です。正成の幼少期に、河内にあった所領の近隣の矢尾(八尾)の別当顕幸(あきゆき)と所領争いをしたことが、『南朝太平記』などに記されています。本図では別当の名は、常久となっています。正成が手水鉢(ちょうずばち)を担いで投げようとし、常久が刀の柄(つか)に手をかけて抜こうとする緊迫した場面が捉えられています。