三囲神社
[みめぐりじんじゃ]
寛政11年(1799年)に行われた三囲神社の開帳では、北斎が絵を描いた提灯12張と大きな絵額が評判を呼び、多くの参詣客が訪れたといわれています。この提灯と絵額は、残念ながら現存していません。
牛嶋神社
北斎は、弘化2年(1845年)頃、牛嶋神社の近くに住んでいたといわれ、大絵額「須佐之男命厄神退治之図[すさのおのみことやくじんたいじのず]」を描き、奉納しています。残念ながら、この大絵額は関東大震災で焼失しましたが、現在、社殿には復元したパネルが飾ってあり、その図様を知ることができます。
達磨横町
[だるまよこちょう]
天保10年(1839年)、達磨横町に住んでいた北斎は、生まれて初めて火災に遭いました。この時北斎は、筆一本を握って家を逃げ出し、しばらくは割れた徳利を筆洗いにして作画を続けたといわれています。
法性寺[ほっしょうじ]
北斎は、熱心な日蓮宗の信者で、妙見菩薩を信仰し、柳嶋妙見へはたびたび参詣していたようです。「北斎辰政[ときまさ]」という雅号は、北斗七星(北辰)の化身といわれる妙見菩薩にちなんだものと考えられています。
回向院[えこういん]
北斎は、120畳近い大きさの紙の上を縦横無尽に駆け回り、巨大な絵を描く大パフォーマンスを生涯に何度か行いました。区内では、回向院の境内と本所合羽干場(現本所三丁目辺り)で行ったといわれています。
吉良邸跡[きらてい
あと]・本所松坂町公園
北斎の曾祖父は、赤穂浪士[あこうろうし]討入りの夜、吉良上野介[きらこうづけのすけ]を守って討ち死にした小林平八郎だと北斎自ら語っていたそうです。また、北斎は幼少時に幕府御用の鏡師、中島伊勢の養子になったといわれていますが、中島家は、吉良邸の跡地にありました。
本所割下水[ほんじょ
わりげすい]・北斎通り
本所林町三丁目
北斎は、30歳代後半から40歳代の初め頃、本所林町の甚兵衛店という長屋で暮らしていました。その頃にオランダ商館長の依頼で、男女の生涯を題材にした絵巻物を描いたといわれています。
榛馬場[はんのきばば]・
榛稲荷神社
天保年間(1830年から1844年まで)の末頃、北斎は娘のお栄と本所亀沢町の榛馬場に移り住みました。北斎の弟子が、住まいでの親子の様子を絵に残しています。
津軽屋敷・緑町公園
すみだ北斎美術館の建設地周辺は、江戸時代、弘前藩津軽家の上屋敷があった場所です。北斎は、藩主である津軽越中守の依頼で屏風に馬の絵を描いたといわれています。
本所割下水
宝暦10年 1歳
本所松坂町一丁目
幼少期
本所横網町
幼少期
本所林町三丁目
寛政10年頃 39歳頃
文政年間の一時期
59歳から71歳までの一時期
本所亀沢町
文化5年 49歳
天保13年 83歳
弘化4年 88歳
本所両国橋近辺
文化6年 50歳
蛇山(本所原庭町)
文化12年 56歳
本所緑町
文政3年 61歳
本所石原片町
天保10年 80歳
本所石原町
弘化2年 86歳
本所達磨横町
天保10年 80歳
本所亀沢町榛馬場
天保末年頃 81歳から85歳頃
向島小梅村
弘化元年 85歳
本所荒井町
弘化2年 86歳
牛島(場所不定)
弘化2年頃 86歳頃
番場町
弘化2年 86歳
本所中之郷元町
弘化2年 86歳
[しらひげじんじゃ]
白髭の翟松 今戸の夕烟
じんじゃ]・牛嶋神社
じんじゃ]・牛嶋神社
御厩川岸より両国橋夕陽見
新田藩松浦家の上屋敷
首尾松の釣舟 椎木の夕蝉
旧安田庭園
新柳橋の白雨 御竹蔵の虹
両国納涼 一の橋弁天
あと]・本所松坂町公園