絵師以前
1歳から18歳まで ※本ページの年齢表記はすべて数え年を使用しています。
北斎は本所割下水付近で生まれ、幼名は時太郎[ときたろう]のちに鉄蔵[てつぞう]といったといわれています。父親は川村氏としかわからず、幕府の御用鏡師である中島伊勢の養子となったとされています。6歳から絵を描くことに興味を覚え、12歳頃には貸本屋で働いたとされ、14歳頃には版木彫りの仕事をしていましたが、絵を描きたかった北斎は、浮世絵師勝川春章への弟子入りを決意します。
習作の時代
19歳から35歳まで
安永7年(1778年)に勝川春章[かつかわしゅんしょう]に入門し、勝川春朗[しゅんろう]の画号で浮世絵の世界に登場してから、寛政6年(1794年)に勝川派を離脱するまでの時代。この時代は、勝川派の絵師として、春章の様式に倣った役者絵や黄表[きびょうし]の挿絵などを描いていましたが、子供絵、おもちゃ絵、武者絵、名所絵、角力[すもう]絵、宗教画など幅広い題材の作品も発表しています。なお、肉筆画は少なく、現在確認できるものとして、「鍾軌[しょうき]図」や「婦女風俗[ふじょふうぞく]図」などが遺っているのみです。
宗理様式の時代
35歳から45歳まで
勝川派を去った北斎は、寛政6年(1794年)新しく宗理[そうり]の画号を用いました。宗理は俵屋宗達らによって開かれた琳派の頭領が使用した画号です。北斎は、それまでの琳派とも異なる独自の宗理様式を完成させ、狂歌の世界と深く関わり、たくさんの摺物や狂歌絵本の挿絵を描いています。寛政10年(1798年)には、北斎辰政[ときまさ]を名乗って琳派からも独立し、どの流派にも属さないことを宣言しています。作風から享和4年(1804年)頃までが、宗理様式の時代と呼ばれています。
読本挿絵と肉筆画の時代
45歳から52歳まで
文化年間(1804年から1818年まで)に入ると、北斎は読本挿絵の制作を精力的に行います。読本挿絵には、基本的に墨色のみでわずかに薄墨が使われることがあります。北斎は墨の濃淡を利用した奥行のある空間表現、奇抜な構図などで読本挿絵の芸術性を飛躍的に高めました。また、陰影表現が特徴的な洋風風景版画も制作しました。肉筆画も多く遺し、最も多作な最晩年に次ぐ制作数があります。現在おなじみの「葛飾北斎」や「戴斗[たいと]」の画号が登場するのもこの時期です。
絵手本の時代
53歳から70歳まで
この時期には門人が増え、北斎の絵を学ぶ人は全国にいたため、北斎は絵手本の制作に情熱を注ぎました。現在、「ホクサイ・スケッチ」の名で世界的に有名な『北斎漫画』の制作もこの時期に始められました。北斎の絵手本は、眺めるだけでも楽しく、工芸品の図案集としても使われました。絵手本以外では、文政年間(1818年から1830年まで)に錦絵の鳥瞰図があり、「為一[いいつ]」の号を使い始めた文政3年から5年までにかけては摺物の制作が増えました。
錦絵の時代
71歳から74歳まで
この時期には「冨嶽三十六景」などの風景版画や花鳥画など、現在も有名な錦絵の名作が多数生み出されました。従来、浮世絵には現在風景画と称されているジャンルはなく、「冨嶽三十六景」の大流行により、浮世絵に風景画を確立したのは、北斎の偉大な業績の一つです。絵手本の時代には、洋風表現を大胆に使用した作例もありましたが、この時代にはより洗練した方法で洋風表現を使い、中国の南蘋[なんぴん]派の表現も取り入れています。
晩年期 肉筆画の時代
75歳から90歳まで
天保5年(1834年)刊行の『富嶽百景』の中で北斎は、百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描けるだろうと記しました。この時期の北斎は、卍[まんじ]の画号を用い始めたほか肉筆画に傾倒し、題材も風俗画から和漢の故事に則した作品や宗教画等へと大きく変化する一方、絵を描く人々のために作画技法や絵の具の調合法を記した絵手本等も刊行しています。嘉永2年(1849年)春、病を得た北斎は真の絵師となることを切望していましたが、ついに90年の生涯を終えました。