肉筆「波に千鳥図」
紙本一幅 ╱ 寛政(1789~1800)末から享和年間(1801~1804)頃
勝川派を離れたのち、宗理と号していた北斎は、寛政末頃に北斎辰政と名乗って独立し、その後はどの流派にも属さず、自然を師匠として独立独歩の道を歩み始めます。本図はその時期の作品です。波濤を白い胡粉で描き、しぶきも胡粉を散らして、波の打ち寄せる勢いを感じさせます。もつれ合って飛ぶ千鳥も、柔らかそうな羽毛と赤く細い足が丁寧に描かれています。
肉筆「貴人と官女図」
絹本一幅 ╱ 天保10年(1839)
破れた垣根から中の様子をうかがう平安貴族の男性、その来訪を告げる召使、召使の口上を聞く高貴な女性たちが描かれており、衣装の文様から庭の草花に至るまで細緻な描写・彩色が施されています。描かれている内容は、「源氏物語」など古典文学の一場面を想起させる伝統的なものながら、濃密な西洋の油絵風の表現が用いられています。数え80歳のときに描いた作品です。
肉筆「南瓜花群虫図」
絹本一幅 ╱ 天保10年(1839)
みごとに開花した南瓜の花の周りには、トンボや蝶などが群れ飛び、画面右手前にはバッタやクワガタなど地を這う虫が配されています。そのいずれもが生彩あふれるタッチでとらえられています。また、全体的に明るい色調で、西洋絵画や近代日本画に通じるものがあり、和漢洋の画法を巧みに操っていたことがうかがえます。数え84歳のときに描いた作品です。
肉筆「朱描鍾馗図」
絹本一幅 ╱ 弘化3年(1846)
中国の厄病除けの神とされる鐘馗を描いた図です。当時流行った疱瘡には赤いものが効くという俗信があったため、端午の節句にも疱瘡除けの願いを込めて鐘馗の幟が飾られていました。北斎は鐘馗の図をいくつも描いていますが、本作品では、朱の明暗や、目や口、髪、髭には墨を巧みに用いて迫力ある作品になっています。数え87歳のときに描いた作品です。
版画「冨嶽三十六景 凱風快晴」
大判錦絵 / 天保2年(1831)頃
赤富士という通称で知られており、誰もが一度は目にしたことがある作品でしょう。わずかな色彩で夏の朝日が昇ってくる様子をとらえていて、刻々と変わる朝の光を山肌のグラデーションで表しています。シンプルな構図でありながらインパクトがあり、大自然の中にあっても富士山の揺らがない圧倒的な存在感を感じさせます。
版画「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」
大判錦絵 / 天保2年(1831)頃
北斎の傑作として最も有名な1図です。低い視点から波を見上げる描き方や波しぶきの描写などは、北斎が以前から考えてきたものといわれ、計算された画面構成は、強く印象に残ります。北斎は多くの印象派の芸術家に影響を与えていますが、フランスの作曲家ドビュッシーは、この作品から発想を得て、交響詩「海」を作曲したといわれています。
版画「冨嶽三十六景 山下白雨」
大判錦絵 / 天保2年(1831)頃
富士山の山頂は雲一つない快晴となっています。中腹には夏雲が湧き出ており、山麓では一面黒々として強烈な稲妻が走っているので、地上ではタイトルが示すように「白雨」、つまり明るい空からにわか雨が降っていると思われます。一つの画面に様々な気象条件を描きこんで、天候をも超越して微動だにしない富士の雄大な姿を描いています。
版画「新板浮絵両国橋夕涼花火見物之図」
大判錦絵 / 天明年間(1781~88)頃
北斎が勝川春朗と号していた習作時代の作品です。西洋の透視画法を用いた「浮絵」の手法で、広大な隅田川を描いています。空に上がった花火や、それを眺める橋上の人々など、ゆったりとした夕涼みの風景が描かれています。一方、手前の両国橋西詰には、見世物小屋や茶屋などが建ち並び、見物人がひしめき合う喧騒が聞こえてくるようです。
版画「百物語 さらやしき」
中判錦絵 / 天保2年から3年(1831~32)頃
有名な皿屋敷伝説を題材とした作品。主人の大切な皿を割ったために殺された下女お菊の霊が、まさに落とされた井戸から現れる場面を描いています。北斎の他にも多くの浮世絵師が皿屋敷を題材に制作していますが、皿を連ねて蛇体のように首から下を表現した姿は他に見られません。百物語というシリーズは、江戸時代に流行した怪談会のことです。